Complete text -- "日本を通してラコタを知る"

07 September

日本を通してラコタを知る



先日、菅原道真について書きましたし、その際にも書いたのですが、僕は日本文化を通してインディアン文化を考えているので、日本のネタを書く事が今後も増えるかと思います。でもそれをナショナリズムと捉えられることに抵抗があるので、ここで少しその事について書いておこうかと思います。


「日本を通してラコタを知る」

 文字面だけでの理解が苦手だ。活字を暗記することは理解とは違うのは当然だし、逆に知った気になった分、危険ですらあると考える。私の得んとするところは、思想的な理解ではなく、深い「気付き」にある。

 さて、ラコタは日本とは全く違った文化を持つ。同じ農耕民同士でさえ、地域が違えばまったく異質な文化を持つのに、彼らは狩猟民族で、我々は農耕民である。当然、我々には、活字による理解しか出来ない部分が多く出て来る。そこをなんとなく行き過ぎる事も出来るし、そうするのも大切な事で、一般的には最良なのかもしれないが、自分の様に、そこを題材としてモノを作る日本人としては、そのままにしてはおけない問題でもあるのだ。それが例え部外者の理解を拒むものであるなら、何故それが部外者の理解を阻むのかを理解した上で、畏れ遠ざける必要がある。

 その為には、情報をインプットするのでは無く、そこからイマジネーションを繰り広げて自らの内で咀嚼し血肉とすることに、その意味があると考える。その咀嚼の過程において、ラコタの神話であり、生活風土、風習、風俗は、そのままでは理解しづらく、故に日本のそれへの翻訳が必要となる。が、その一方で翻訳された文化は、本来のそれの理解を拒むものであり、意味をなさない事も事実であった。つまり、情報は情報のままでは逆に理解を遠ざけるものであったということだ。大切なのは咀嚼であり、イマジネーションである。その咀嚼、イマジネーションの手法として、私は自分にとってよりリアルな、日本の文化、自分自身の体験からアプローチしている。それを超える製作は、責任が持てないものであり、製作中の高揚感も得られないので、最近ではしないようにしている。

 ところで、自分は日本人としてラコタの伝統を、自らを日本人である事を忘れずに製作しているとする評価を国内外問わず頂く機会もあり、それは多くの場合褒め言葉となっているのだが、まず注釈しておきたいのは、日本の要素を無理に製作物に入れようとはしていない事である。
 「自らの日本人性・ルーツ」を取込んで行く際、日本の古典模様を取込んで行くアプローチが一番容易で、多く用いられている手法であるが、自分自身はこれを意識した事はないし、製作物にこういったものを反映させたことは一度も無い。私の製作物のベースはラコタであり、気分的にそこに日本的なものはおろか、他部族の意匠を取込む事には、気分的に嫌悪感を感じる。
 私が自らのルーツを取り入れるのは、先述している、自らの気付きの道程の手法なのであり、その手段において日本を使うのであれば、自ずと製作物に日本、そしてルーツが、きちんとした気付きによって噛み砕かれた、いわば血肉をかけて自分の中で生み出されたハイブリッド、いな、咀嚼物として産み落とされるはずであると私は考える。

 
 以上により、私は、記号化したルーツをファッションとして取り入れる現在の、流れの中での、この国のナショナリズムには疑問を呈する次第であるし、一蓮托生に扱われる事には抵抗を感じる。日本のヒップホップがつまらいのも、ここに端緒がある、どうしようもない問題なのではなかろうか。要は活字による理解を嫌悪する次第なのである。





 
22:37:54 | hilo | |
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